隠喩としての病

アメリカの作家スーザン・ソンタグ『隠喩としての病(Illness as Metaphor)』は大学の教養部時代に原書を読みました。

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特に難解な著作ではなく
結構面白かったです。

続編のエイズ編はお恥ずかしながら未だ読んでいません💦

スーザン・ソンタグ自身に関してはあまり好きなタイプの作家ではありませんが(英語国粋主義的な強論がどうも受け付けない💦)

約30年もの間、進行性乳癌と子宮癌を患っていて、病者としての視点と理論には興味深いものを禁じ得ません。
最期は急性骨髄性白血病で亡くなっています。


さて…
この『隠喩としての病』は是非とも読んでいただきたい一冊だと思っています。
みすず書房から日本語版も出ていますので!

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一見冷静に論破している風ですが
病者としての焦燥感とか切迫感なんかが行間に垣間見ることができ
普通に病者の手記としても解釈できる部分があると思います。

私の書いてみたいのは、病気の王国に移住するとはどういうことかという体験談ではなく、人間がそれに耐えようとして織りなす空想についてである。…病気とは隠喩などではなく、従って病気に対処するには-最も健康に病気になるには-隠喩がらみの病気観を一掃すること、なるたけそれに抵抗することが最も正しい方法であるということだが、それにしても、病気の王国の住民となりながら、そこの風景と化しているけばけばしい隠喩に毒されずにすますのは殆ど不可能に近い。そうした隠喩の正体を明らかにし、それから解放されるために、私は以下の探究を捧げたいと考えている。


19世紀半ばまで、身体を徐々に蝕んでいく類似疾患と捉えられていた結核と癌の対比について著しています。

結核は目に見える体の変化がある。色白、咳、吐血など。エネルギーが充溢する。肉体の軟化、消耗とみなせる。時間の病気。生をせきたて、霊化する。体の上部の霊的な場所が侵される病気で口にしやすく、魂の病気とみなされる。下流界層の貧困と零落の病気。環境の変化でよくなるとされる。結核よる死は安楽死繊細で美しい死…

がんは目に見えない。エネルギーの喪失。肉体の退化や侵略、魔性の懐胎、とみなせる。空間の病気、がんは地理的な隠喩が使われる。がんは食いにしにくい場所(乳房、大腸、膀胱、子宮、睾丸など)で、肉体の病気。例外は白血病中流階級の豊かさと過剰の病気。環境の変化でよくなるとは考えない。がんは苦痛にさいなまれる死、無情な死…


こんな記述もあります。

結核は情熱過多、性欲過剰。がんは情熱不足、性欲抑圧。これは最近の傾向であって、19世紀では結核の隠喩は後者であった。
がんと情熱の抑圧を結びつけた人に、フロイトとヴィルヘルム・ライヒがいる。病気が進むにつれて、患者は断念・諦念を持つようになり、それによって美しくなるとされる。結核の場合にはセクシーにもなる。

病気は積善の最後のチャンスとされる。病気にかかることでこれまでの自己欺瞞と失敗を洞察し、真実を生きる(ときに霊的に浄化される)。

結核もがんもそれにかかりやすい性格があるとされてきた。このような心理学的な理解は病気のリアリティを骨抜きにする。要するに、生活を悔い改めろとか、性格を変えろとか、贖罪せよとか、病気の治療とは別のことにエネルギーを使わせる。そして死は意欲の減退であるとされ、死んだものは敗者になる。

なかなか面白いでしょ?
是非‼️